院長:川上 哲寛
- 出身
- 東京都武蔵野市吉祥寺
- 経歴
- 早稲田大学人間科学部スポーツ科学科(現スポーツ科学部)卒業⇒神奈川衛生学園専門学校卒業
- 資格
- はり師・きゅう師・あんま指圧マッサージ師
- 座右の銘
- 禍福一如・禍福は糾える縄の如し⇒転んでもただでは起きない
- 趣味
- 野球、手品、サックス
どのような学生時代を過ごされていたのですか?
中学・高校の6年間、野球部に所属していました。
「速い球を投げる」「遠くに飛ばす」は、野球少年にとって、一番気になるところです。
僕自身、学生時代、元々体が細く、スポーツ科学が徐々に注目され始めたことも重なり、科学的トレーニングに興味が湧くようになりました。
それがきっかけで、スポーツ選手をサポートする立場として「スポーツトレーナー」を、将来の職業の選択肢として考え始めました。
それで、高校卒業後、早稲田大学人間科学部のスポーツ科学科に進学しました。
大学では最新鋭の科学的トレーニング法を学ぶ一方、準硬式野球部に所属し、選手兼トレーナーとして活動していました。
大学ではスポーツ科学を学ばれていたのに、どうして鍼灸師になられたのですか?
いざ、4年生の就職活動時期になって、「実際にトレーナーとして活動できるのだろうか?」という不安が出てきました。
というのは、日本ではトレーナー資格制度して整備されていないために、トレーナーとして活動できる窓口が狭かったんですよね。
そこで、アメリカの NATA(National Athletic Trainers’ Association, Inc.)というトレーナー資格を取得された中村千秋先生に相談したところ、
「 日本では、体育系の大学を卒業しただけでは、トレーナー活動するのは難しいね。何か医療資格を取った方がトレーナーになる可能性が広がるよ」
とアドバイスされました。
そのアドバイスをいただいたとき、何のために大学に入学したのか一瞬、落ち込みました。
それでも、直ぐに、大学卒業後は、何らかの医療資格を取得する方向に気持ちを切り替えられました。
トレーナーとして活動しやすい医療資格として、日本では、鍼灸マッサージ師、柔道整復師、理学療法士などが挙げられます。
その中で、中村先生は
「鍼灸の世界は面白いかもしれないぞ。あの業界には名人と呼ばれる人がいて、名人は色々な病気を治すみたいだよ」
と鍼灸師の資格を勧めてくれました。
この時は、医療資格はトレーナーになるための手段として考えていたので、鍼灸で病気を治すというこ考えは、頭の中にありませんでした。
大学卒業後の進路に鍼灸学校を選択したのは、マッサージ資格も取得でき、開業権があるという理由だけだったんですよね。
それでも、今思い起こすと、「鍼の名人は色々な病気を治せる」という中村先生の言葉は、心のどこかに引っ掛かっていたんでしょう。
その言葉が、後々の僕の人生を大きく左右しました。
鍼灸の専門学校時代は、どんな学生生活を送っていましたか?
一クラス30人ちょっとの3クラスで、一学年全体は90人ほどの学校でした。高卒はクラスに3,4人くらいで、大卒は3,4人でしょうね。
年齢層的には30~60代の方で、前職が自動車教習所の元教官、薬剤師、小学校の校長、 海外勤務の銀行マン、喫茶店のマスターなど、多種多様の経歴の方々と共に席を並べていました。
トレーナー志望の学生は、一学年で、1~2割はいたと思います。その中の数名が、授業後、同じ県内の東海大学の体育会系の部活でトレーナー活動をしていました。
また、鍼灸そのものに関心があって入学した人たちは、休日に、色々な研究会に参加していたようです。
一方、僕はというと、居酒屋の厨房や、サウナでおじさん相手にマッサージのアルバイトをするくらいで、トレーナーに繋がる、具体的な行動を起こしていませんでした。
というのも、専門学校に入学してから、トレーナーになるという熱意を失ってしまったからです。
専門学校入学前に、大学時代にお世話になった、西大立目永先生(アマチュア野球界の審判員としての第一人者)から、プロ野球戦選手をケアしているトレーナーの方をご紹介いただいていました。
そこで、実際に、その方が経営されるトレーナールームに行き、トレーナー活動の実際の話を伺いました。
たとえ医療資格を取得したとしても、現場では、道具運びなどの雑用係として扱われることが多く、実際に選手のケアをできるのは一握りの人しかいない、ということでした。
「トレーナー」になるために鍼灸学校に進んだのに、「トレーナー」になれないかもしれない、そう考えているうちに、次第に「トレーナー」になりたいという想いが無くなってきました。
そうだったんですか。では、そこから本格的な鍼灸の道に進むまでに、どのような変化があったのですか?
僕が専門学校に入学した1990年代後半、日本は、既に少子高齢社会に突入していました。
僕自身、おばあちゃん子だったこともあり、高齢者ケアの重要性を感じてました。
それで、「トレーナー」への想いが冷めてきたこともあって、鍼灸師としての資格を、本来そうあるべき「治療家」として活用していこうと方向転換しました。
神奈川衛生学園では、幸か不幸か、鍼灸や按摩マッサージ指圧以外にも、オイルマッサージ、リンパドレナージュ、操体法など、色々な治療を学べる環境でした。
「治療家」への舵を切り替えたものの、最終学年の3年生になっても、どういった治療法を選択し、どんなところで働けばいいのか、自分の進むべき方向性が、皆目、見当がつきませんでした。
更に、鍼灸学校に所属しているのにもかかわらず、数ある施術法の中から鍼灸を選ぶ確率が極めて低かったことが思い出されます。
私自身、大学でスポーツ科学の勉強をしてきたこともあって、東洋医学の「気」「陰陽」は、全く真逆の概念です。
そのため、東洋医学の理論を試験用に学べても、現実的に受け入れにくい面がありました。
また、専門学校の授業だけでは、実際に鍼灸の施術効果を感じる機会が少なかったこともあり、専門学校時代は、鍼灸に大きな価値を感じていませんでした。
それなのに、何をきっかけに鍼灸の道に進むことを決められたのですか?
それは、3年生の11月ごろ、ある日のことです。
同じクラスで最高齢60歳で、元エリート銀行マンのTさんという方がいらっしゃいました。
そのTさんが、卒業後の進路に悩んでいた、当時27歳の僕に、「川上君、こんな本があるのだけども読んでみなよ」と、ある一冊の本を薦められました。
その本は、今の僕の鍼灸の師匠の藤本蓮風先生が書かれた『鍼灸医学における実践から理論へ』でした。
「真に実践する者こそは“真の理論家”である」を信念とする藤本先生の本から、東洋医学に対する情熱が肉声として聞こえて来るほどの、臨床家として迫力が伝わってきました。
内容は、「西洋医学全盛における日本における東洋医学の存在価値」から始まり、「気一元の世界観」「直観と論理」「人間理解としての問診」「多面的観察の重要性」など、いずれも専門学校では学んだことがないものばかりでした。
『鍼灸医学における実践から理論へ』は、まさに僕の人生の方向性を変えてくれた本でした。
「東洋医学は、非科学的で空想的と思っていたけども、本当は論理的にもしっかりとした、れっきとした医学なんだ。それに肩凝り・腰痛だけでなく、腕さえ上達すれば、西洋医学では治りにくい病気も対しても、有効な治療を提供できる」と初めて鍼灸に対して希望を持てるようになったのです。
当時、鍼灸に対して猜疑心を抱いていただけに、尚更感動した事を今でも忘れていません。
それで、鍼灸マッサージ師として行える、数ある施術手段の中から、【鍼灸】を選択する決断に至りました。
それで、ようやく専門学校卒業後の2001年の5月に、藤本先生が主宰される北辰会関東支部に入会しました。
元々、東京に住まれたのにもかかわらず、どうして東京から大阪に引っ越されてきたんですか?
免許取得して1年目に、勤務してた鍼灸接骨院を、2ヵ月ごとに2回辞めたことが関係しています。
1つ目、2つ目の勤務先が、それぞれ、電気鍼や、レーザー療法を行っていました。
そういった施術が、北辰会に入会して本格的に鍼灸のことを学び出して間もない自分には、どうも納得いかなかったんでしょう。
本来なら、お給料をいただいて勤めている訳ですから、自分が勤務している所に合わしていくのが当然です。
しかし、勤務して1ヵ月過ぎたころに、雇い主の院長に、「どうだ、職場に慣れたか?今後、君はどういう治療をしていきたいか?」というような話になりました。
「こう言ったら、きっと辞めさせられるだろうな~」と思いながら、「所属する鍼の研究会の師匠の藤本先生のような本物の鍼をしていきたい」と正直にお伝えしました。
すると、案の定、二人の院長から辞めさせられてしまいました。
このまま東京で別の治療院で勤務したとしても、きっと同じことの繰り返しになるからと、北辰会本部がある関西で、鍼灸の学びを深めていこうと決断しました。
それで、半年間、東京の六本木で、深夜、出張マッサージで資金を溜め、2002年5月に、大阪に引っ越しをしました。
辞めさせられるのを覚悟で、確信犯的に「本物の鍼をしたい」と言われたんですね(苦笑)。では、大阪に移ってからの活動についてお聞かせください。
大阪に引っ越しして、東大阪の通所介護施設「むつみクリニック」に勤務しました。
このクリニックに来院される利用者さんに、午前中だけで、1日に20~30人ほど鍼の施術をさせていただきました。
高齢者のケアに携われたことで、専門学校時代に治療家の道を志すきっかけとなった目的が、半ば達成しました。
そこでの勤務の傍ら、毎週1回、10年間、藤本先生の鍼灸院に研修させていただくこととなりました(現在は月1回)。
むつみクリニックは、15時までの勤務だったので、夕方以降の時間を活用するために、2003年11月に東大阪のマンションの一室を借りて、開業しました。
そして、その5年半後の2009年5月、大阪市北区天神橋に移転し、現在に至ります。
では、最後に、鍼灸師としての想いを聞かせてください
始めはスポーツトレーナーになるための一手段として選択した鍼灸の世界でしたが、まさか本格的にその道を本格的に志すことになろうとは、鍼灸専門学校入学時には全く想像さえしていませんでした。
これも大学時代の中村先生の言葉が潜在的に頭の中に残っていて、藤本蓮風先生の著書を通じて鍼灸医学の本質に触れられたことで、この道へ導かれたのだと、今さらながらに思います。
最後に、当院の鍼灸で、一人でも多くの方々の健康的な生活のお役に立てられるのであれば、鍼医者としてこれ以上に嬉しいことはありません。辛いお悩みを抱えていましたら是非”漢方鍼灸院 大阪市てんま吉祥堂”にお気軽にご相談ください。
お電話ありがとうございます、
漢方鍼灸院 大阪市てんま吉祥堂でございます。